すみれの部屋

おら海外さ来ただ!

8月6日

今日は広島に原子爆弾が投下された日ですね。私の生まれ育った地域は幸運にも大きな襲撃に見舞われなかったようですが、それでも戦時中も戦後しばらくも壮絶だったことは、祖母から色々と話を聞かされていたので、想像に難くありません。

フランスでは色々な映画やドキュメンタリーをやっているのですが、先日、『ハクソー・リッジ』という映画を観ました。この映画の舞台は沖縄の陸上戦、主人公はアメリカ衛生兵のデズモンド・T・ドスという男性です。アメリカの映画ということで、もちろんヒーローはアメリカ人です。国内で見るこの時期のドラマは、戦争禍を生きる日本人の力強さや忍耐力に焦点が当たっていますが、『ハクソー・リッジ』での日本人の描写は狡猾で、どうにも諦めの悪いショッカーのようでした。未だにアメリカの多くの人は「原爆は必要悪」だと思っているようです。そして、日本国内では声高に核廃絶について訴えていても、アメリカ同様、私が住んだことのある国では原爆について本気で議論していないだろうと思います。『ハクソー・リッジ』然り、敗戦国の当時の日本の評価は連合国側から見たらアホで軽率で信用ならない国、だったのでしょう。負けが何となく分かっている状況でも「やれ神風だやれ突撃だ」と国民を鼓舞する戦時中の政府。連合国側からAHOで信用が置けないと思われても仕方ない気も。。

海外で第二次世界大戦の話を聞くと、日本人としては色々と恥ずかしくなるようなエピソードも普通に出てきます。その当時生きていないので、どこまで本当か分かりませんが、でも日本だと戦争の「被害国」として語られる視点が、外国では、戦争に参加した加害者側の視点も否応なしに突きつけられます。

スウェーデンでは、中国人女子学生がバスで隣に乗ってきて話しかけられたのですが、「日本人?私たちにひどいことを散々しておいて、日本嫌い!」と堂々と宣言され、戸惑ったことがあります。大学院は8割の学生が留学生で、台湾人の先輩からは「日本人として、その当時台湾から日本に連れて来られた徴用工や慰安婦に謝罪の気持ちはないのか」と聞かれたこともありました。なんだか日本ってアジアで嫌われてない…?

終戦から75年が経ち、もうほとんどの人は戦争を知りません。敗戦国に生まれた人、連合国に生まれた人、人種や国境の垣根が少しずつ取り払われて、いがみ合いながらも隣国同士協力する世の中になってきました。

ここで疑問が1つ。

たまたま生まれ落ちた国の国民なのに、個人として他国に未だに謝罪や責任を感じて生きていかなければならないのか。

個人で考えは変わると思いますが、私の考えは「否」です。

理由は大きく2つ。

1つ目は経済的な理由です。いつまでも過去について争っていると、いつまでも豊かな国になれないからです。過去を引きずり、争うことで、財政が圧迫されるだけでなく、土地も痩せていく、そうすると国が貧しくなる。国が貧しくなると、国民も不満がたまる。不満を戦争にぶつける。という悪循環になると思うからです。

2つ目は人なら誰でも同じ過ちを犯す可能性があるからです。たまたま日本に生まれた、たまたまフランスに生まれた人が、先人たちの過ちを一生背負う必要はないと思います。ただ、日本としては国が存在する限り、色々と責任が生じてくるのも仕方ないかなとも思います。ナチスドイツが行ったことを歴史から抹消はできません。負の歴史は特に人の記憶に、歴史の記録に残りやすいですが、こういう過去に起こった過ちについてドイツ人だけが気をつけても意味はないと思います。

これから戦争がある場合、それは先人たちが起こす物ではなく、未来の人が起こすものです。だからこそ、この世界にいる誰もが、加害者・被害者の立場を取り払い、平和を共に構築する者として、先人の過ちに学ぶ必要があると思います。

原子爆弾の凄惨さを伝えるのであれば、日本人の声が一番説得力があるでしょう。しかし、記憶や恐怖は時と共に薄れていきます。私は、国と国の対話はもちろん大切ですが、国という枠組みを取り払い、全人類の問題として過去の戦争に学ぶ時代に突入したのではないかなと思うのです。

このように思うことは、平和な国で育ち、暮らしているからなのでしょうか?こういう問題は物事が複雑に絡みすぎていて何が正解か分かりません。正解のない問題なのかもしれません。

 

真面目に考えていたらお腹が空きました。